【言語処理100本ノック 2020】第3章: 正規表現【Python】

自然言語処理の問題集として有名な言語処理100本ノックの2020年版の解答例です。 この記事では、以下の第1章から第10章のうち、「第3章: 正規表現」を解いてみた結果をまとめています。

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第3章: 正規表現

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!wget https://nlp100.github.io/data/jawiki-country.json.gz

解凍し、内容を確認します。

!gunzip ./jawiki-country.json.gz
# 行数の確認
!wc -l ./jawiki-country.json
--- 出力 ---
248 ./jawiki-country.json
# 先頭行の確認
!head -1 ./jawiki-country.json
--- 出力 ---
{"title": "エジプト", "text": "{{otheruses|主に現代のエジプト・アラブ共和国|古代|古代エジプト}}\n{{基礎情報 国\n|略名 =エジプト\n|漢字書き=埃及\n|日本語国名 =エジプト・アラブ共和国\n|公式国名 ={{lang|ar|'''جمهورية مصر العربية'''}}\n|国旗画像 =Flag of Egypt.svg\n|国章画像 =[[ファイル:Coat_of_arms_of_Egypt.svg|100px|エジプトの国章]]\n|国章リンク =([[エジプトの国章|国章]])\n|標語 =なし\n|位置画像 =Egypt (orthographic projection).svg\n|公用語 =[[アラビア語]]\n|首都 =[[File:Flag of Cairo.svg|24px]] [[カイロ]]\n|最大都市 =カイロ\n|元首等肩書 =[[近代エジプトの国家元首の一覧|大統領]]\n|元首等氏名 =[[アブドルファッターフ・アッ=シーシー]]\n|首相等肩書 ={{ill2|エジプトの首相|en|Prime Minister of Egypt|label=首相}}\n|首相等氏名 ={{仮リンク|ムスタファ・マドブーリー|ar|مصطفى مدبولي|en|Moustafa Madbouly}}\n|面積順位 =29\n|面積大きさ =1 E12\n|面積値 =1,010,408\n|水面積率 =0.6%\n|人口統計年 =2012\n|人口順位 =\n|人口大きさ =1 E7\n|人口値 =1億人\n|人口密度値 =76\n|GDP統計年元 =2018\n|GDP値元 =4兆4,374億<ref name=\"economy\">IMF Data and Statistics 2020年2月3日閲覧([https://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2019/02/weodata/weorept.aspx?sy=2017&ey=2024&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=469&s=NGDP%2CNGDPD%2CPPPGDP%2CNGDPDPC%2CPPPPC&grp=0&a=&pr.x=57&pr.y=4])</ref>\n|GDP統計年MER =2018\n|GDP順位MER =45\n|GDP値MER =2,496億<ref name=\"economy\" />\n|GDP統計年 =2018\n|GDP順位 =21\n|GDP値 =1兆2,954億<ref name=\"economy\" />\n|GDP/人 =13,358<ref name=\"economy\" />\n|建国形態 =[[独立]]<br />&nbsp;-&nbsp;日付\n|建国年月日 =[[イギリス]]より<br />[[1922年]][[2月28日]]\n|通貨 =[[エジプト・ポンド]] (£)\n|通貨コード =EGP\n|時間帯 = +2\n|夏時間 =なし\n|国歌 =[[エジプトの国歌|{{lang|ar|بلادي، بلادي، بلادي}}]]{{ar icon}}<br>''我が祖国''<br>{{center|[[file:Bilady, Bilady, Bilady.ogg]]}}\n|ISO 3166-1 = EG / EGY\n|ccTLD =[[.eg]]\n|国際電話番号 =20\n|注記 =\n}}\n'''エジプト・アラブ共和国'''(エジプト・アラブきょうわこく、{{lang-ar|جمهورية مصر العربية}})、通称'''エジプト'''は、[[中東]]([[アラブ世界]])および[[北アフリカ]]にある[[共和国]]。[[首都]]は[[カイロ]]。\n\n[[アフリカ大陸]]では北東端に位置し、西に[[リビア]]、南に[[スーダン]]、北東の[[シナイ半島]]では[[イスラエル]]、[[ガザ地区]]と[[国境]]を接する。北は[[地中海]]、東は[[紅海]]に面している。南北に流れる[[ナイル川]]の[[河谷]]と[[三角州|デルタ]]地帯([[ナイル・デルタ]])のほかは、国土の大部分の95%以上が[[砂漠]]である<ref>[https://kotobank.jp/word/エジプト-36404 エジプト]藤井宏志『日本大百科全書』小学館 2020年2月1日閲覧</ref>。ナイル河口の東に地中海と紅海を結ぶ[[スエズ運河]]がある。\n\n== 国号 ==\n正式名称は[[アラビア語]]で {{lang|ar|'''جمهورية مصر العربية'''}}(ラテン[[翻字]]: {{transl|ar|DIN|Ǧumhūrīyah Miṣr al-ʿarabīyah}})。通称は {{lang|ar|'''مصر'''}}([[フスハー|標準語]]: {{transl|ar|DIN|Miṣr}} ミスル、[[アラビア語エジプト方言|エジプト方言]]ほか、口語アラビア語: {{IPA|mɑsˤɾ}} マスル)。[[コプト語]]: {{Lang|cop|Ⲭⲏⲙⲓ}}(Khemi ケーミ)。\n\nアラビア語の名称'''ミスル'''は、古代から[[セム語派|セム語]]でこの地を指した名称である。なお、セム語の一派である[[ヘブライ語]]では、[[双数形]]の'''ミスライム'''({{lang|he|מצרים}}, ミツライム)となる。\n\n公式の英語表記は '''Arab Republic of Egypt'''。通称 '''Egypt''' {{IPA-en|ˈiːdʒɨpt|}}。形容詞はEgyptian {{IPA-en|ɨˈdʒɪpʃ''ə''n|}}。エジプトの呼称は、古代[[エジプト語]]のフート・カア・プタハ([[プタハ]]神の魂の神殿)から転じてこの地を指すようになったギリシャ語の単語である、[[ギリシャ神話]]の[[アイギュプトス (ギリシア神話)|アイギュプトス]]にちなむ。\n\n[[日本語]]の表記はエジプト・アラブ共和国。通称[[wikt:エジプト|エジプト]]。[[漢字]]では'''埃及'''と表記し、'''埃'''と略す。この[[国名の漢字表記一覧|漢字表記]]は、[[漢文]]がそのまま日本語や[[中国語]]などに輸入されたものである。英語では「イージプト」と呼ばれる。\n\n* [[1882年]] - 1922年 ({{仮リンク|イギリス領エジプト|en|History of Egypt under the British}})\n* 1922年 - 1953年 [[エジプト王国]]\n* 1953年 - 1958年 [[エジプト共和国]]\n* 1958年 - 1971年 [[アラブ連合共和国]]\n* 1971年 - 現在 エジプト・アラブ共和国\n\n== 歴史 ==\n{{Main|エジプトの歴史}}\n\n=== 古代エジプト ===\n[[ファイル:All Gizah Pyramids.jpg|thumb|300px|right|[[ギーザ|ギザ]]の[[三大ピラミッド]]]]\n[[ファイル:Egyptiska hieroglyfer, Nordisk familjebok.png|thumb|260px|right|[[ヒエログリフ]]]]\n{{Main|古代エジプト}}\n\n「エジプトはナイルの賜物」という[[古代ギリシア]]の[[歴史家]][[ヘロドトス]]の言葉で有名なように、エジプトは豊かな[[ナイル川]]の[[三角州|デルタ]]に支えられ[[古代エジプト|古代エジプト文明]]を発展させてきた。エジプト人は[[紀元前3000年]]ごろには早くも中央集権国家を形成し、[[ピラミッド]]や[[王家の谷]]、[[ヒエログリフ]]などを通じて世界的によく知られている高度な[[文明]]を発達させた。\n\n=== アケメネス朝ペルシア ===\n3000年にわたる諸王朝の盛衰の末、[[紀元前525年]]に[[アケメネス朝]]ペルシアに支配された。\n\n=== ヘレニズム文化 ===\n[[紀元前332年]]には[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]に征服された。その後、[[ギリシャ人|ギリシア系]]の[[プトレマイオス朝]]が成立し、[[ヘレニズム]]文化の中心のひとつとして栄えた。\n\n=== ローマ帝国 ===\nプトレマイオス朝は[[紀元前30年]]に滅ぼされ、エジプトは[[ローマ帝国]]の[[属州]]となり[[アエギュプトゥス]]と呼ばれた。ローマ帝国の統治下では[[キリスト教]]が広まり、[[コプト教会]]が生まれた。ローマ帝国の分割後は[[東ローマ帝国]]に属し、豊かな[[穀物]]生産でその繁栄を支えた。\n\n=== イスラム王朝 ===\n7世紀に[[イスラム教|イスラム化]]。[[639年]]に[[イスラム帝国]]の[[将軍]][[アムル・イブン・アル=アース]]によって征服され、[[ウマイヤ朝]]および[[アッバース朝]]の一部となった。アッバース朝の支配が衰えると、そのエジプト[[総督]]から自立した[[トゥールーン朝]]、[[イフシード朝]]の短い支配を経て、[[969年]]に現在の[[チュニジア]]で興った[[ファーティマ朝]]によって征服された。これ以来、[[アイユーブ朝]]、[[マムルーク朝]]とエジプトを本拠地として[[歴史的シリア|シリア地方]]まで版図に組み入れた[[イスラム王朝]]が500年以上にわたって続く。特に250年間続いたマムルーク朝の下で[[中央アジア]]や[[カフカス]]などアラブ世界の外からやってきた[[マムルーク]](奴隷軍人)による支配体制が確立した。\n\n=== オスマン帝国 ===\n[[1517年]]に、マムルーク朝を滅ぼしてエジプトを属州とした[[オスマン帝国]]のもとでもマムルーク支配は温存された({{仮リンク|エジプト・エヤレト|en|Egypt Eyalet}})。\n\n=== ムハンマド・アリー朝 ===\n[[ファイル:ModernEgypt, Muhammad Ali by Auguste Couder, BAP 17996.jpg|thumb|180px|[[ムハンマド・アリー]]]]\n[[1798年]]、[[フランス]]の[[ナポレオン・ボナパルト]]による[[エジプト・シリア戦役|エジプト遠征]]をきっかけに、エジプトは[[近代国家]]形成の時代を迎える。フランス軍撤退後、混乱を収拾して権力を掌握したのはオスマン帝国が派遣した[[アルバニア人]]部隊の隊長としてエジプトにやってきた軍人、[[ムハンマド・アリー]]であった。彼は実力によってエジプト総督に就任すると、マムルークを打倒して総督による中央集権化を打ち立て、[[経済]]・[[軍事]]の近代化を進め、エジプトをオスマン帝国から半ば独立させることに成功した。アルバニア系ムハンマド・アリー家による[[世襲]]政権を打ち立てた([[ムハンマド・アリー朝]])。しかし、当時の世界に勢力を広げた[[ヨーロッパ]][[列強]]はエジプトの独立を認めず、また、ムハンマド・アリー朝の急速な近代化政策による社会矛盾は結局、エジプトを列強に経済的に従属させることになった。\n\n=== イギリスの進出 ===\nムハンマド・アリーは[[綿花]]を主体とする農産物[[専売制]]をとっていたが、1838年に宗主オスマン帝国が[[イギリス]]と自由貿易協定を結んだ。ムハンマド・アリーが1845年に三角州の堰堤を着工。死後に専売制が崩壊し、また堰堤の工期も延びて3回も支配者の交代を経た1861年、ようやく一応の完工をみた。1858年末には国庫債券を発行しなければならないほどエジプト財政は窮迫していた。[[スエズ運河会社]]に払い込む出資金の不足分は、シャルル・ラフィット([[:fr:Charles Laffitte|Charles Laffitte]])と割引銀行(現・[[BNPパリバ]])から借り、国庫債券で返済することにした。[[イスマーイール・パシャ]]が出資の継続を認めたとき、フランスの[[ナポレオン3世]]の裁定により契約責任を問われ、違約金が[[自転車操業]]に拍車をかけた。[[1869年]]、エジプトはフランスとともに[[スエズ運河]]を開通させた。この前後(1862 - 1873年)に8回も[[外債]]が起債され、額面も次第に巨額となっていた。エジプトはやむなくスエズ運河会社持分を398万[[スターリング・ポンド|ポンド]]でイギリスに売却したが、1876年4月に[[デフォルト]]した<ref>西谷進、「[https://doi.org/10.20624/sehs.37.2_113 一九世紀後半エジプト国家財政の行詰まりと外債 (一)]」 『社会経済史学』 1971年 37巻 2号 p.113-134,216\n, {{doi|10.20624/sehs.37.2_113}}</ref>。\n\n英仏が負債の償還をめぐって争い、エジプトの蔵相は追放された。[[イタリア]]や[[オーストリア]]も交えた負債委員会が組織された。2回目のリスケジュールでイスマーイール一族の直轄地がすべて移管されたが、土地税収が滞った<ref>西谷進、「[https://doi.org/10.20624/sehs.37.3_283 一九世紀後半エジプト国家財政の行詰まりと外債 (二)]」 社会経済史学 1971年 37巻 3号 p.283-311,330-33, {{doi|10.20624/sehs.37.3_283}}</ref>。\n\n[[1882年]]、[[アフマド・オラービー]]が中心となって起きた反英運動([[ウラービー革命]])がイギリスによって武力鎮圧された。エジプトはイギリスの[[保護国]]となる。結果として、政府の教育支出が大幅カットされるなどした。[[1914年]]には、[[第一次世界大戦]]によってイギリスがエジプトの名目上の[[宗主国]]であるオスマン帝国と開戦したため、エジプトはオスマン帝国の宗主権から切り離された。さらに[[サアド・ザグルール]]の逮捕・国外追放によって反英独立運動たる[[エジプト革命 (1919年)|1919年エジプト革命]]が勃発し、英国より主政の国として独立した。\n\n=== 独立・エジプト王国 ===\n第一次大戦後の[[1922年]][[2月28日]]に'''[[エジプト王国]]'''が成立し、翌年イギリスはその[[独立]]を認めたが、その後もイギリスの間接的な支配体制は続いた。\n\nエジプト王国は[[立憲君主制]]を布いて議会を設置し、緩やかな近代化を目指した。[[第二次世界大戦]]では、[[枢軸国軍]]がイタリア領リビアから侵攻したが、英軍が撃退した([[北アフリカ戦線]])。第二次世界大戦前後から[[パレスチナ問題]]の深刻化や、1948年から1949年の[[パレスチナ戦争]]([[第一次中東戦争]])での[[イスラエル]]への敗北、経済状況の悪化、[[ムスリム同胞団]]など政治のイスラム化([[イスラム主義]])を唱える社会勢力の台頭によって次第に動揺していった。\n\n=== エジプト共和国 ===\nこの状況を受けて[[1952年]]、軍内部の秘密組織[[自由将校団]]が[[クーデター]]を起こし、国王[[ファールーク1世 (エジプト王)|ファールーク1世]]を亡命に追い込み、ムハンマド・アリー朝を打倒した([[エジプト革命 (1952年)|エジプト革命]]<ref>片山正人『現代アフリカ・クーデター全史』叢文社 2005年 ISBN 4-7947-0523-9 p49</ref>)。生後わずか半年の[[フアード2世 (エジプト王)|フアード2世]]を即位させ、[[自由将校団]]団長の[[ムハンマド・ナギーブ]]が首相に就任して権力を掌握した。さらに翌年の1953年、国王を廃位して共和政へと移行、[[ムハンマド・ナギーブ|ナギーブ]]が首相を兼務したまま初代大統領となり、'''エジプト共和国'''が成立した。\n\n=== ナーセル政権 ===\n[[ファイル:Gamal Nasser.jpg|thumb|180px|right|[[ガマール・アブドゥル=ナーセル]]。[[第二次中東戦争]]に勝利し、スエズ運河を国有化した。ナーセルの下でエジプトは[[汎アラブ主義]]の中心となった]]\n[[1956年]]、第2代大統領に就任した[[ガマール・アブドゥル=ナーセル]]のもとでエジプトは[[冷戦]]下での中立外交と[[汎アラブ主義|汎アラブ主義(アラブ民族主義)]]を柱とする独自の政策を進め、[[第三世界]]・[[アラブ諸国]]の雄として台頭する。同年にエジプトは[[スエズ運河国有化宣言|スエズ運河国有化]]を断行し、これによって勃発した[[第二次中東戦争]](スエズ戦争)で政治的に勝利を収めた。[[1958年]]には[[シリア]]と連合して'''[[アラブ連合共和国]]'''を成立させた。しかし[[1961年]]にはシリアが連合から脱退し、[[国家連合]]としてのアラブ連合共和国はわずか3年で事実上崩壊した。さらに[[1967年]]の[[第三次中東戦争]]は惨敗に終わり、これによってナーセルの権威は求心力を失った。\n\n=== サーダート政権 ===\n[[1970年]]に急死したナーセルの後任となった[[アンワル・アッ=サーダート]]は、自ら主導した[[第四次中東戦争]]後に[[ソビエト連邦]]と対立して[[アメリカ合衆国]]など[[西側諸国]]に接近。[[社会主義]]的経済政策の転換、[[イスラエル]]との融和など、ナーセル体制の切り替えを進めた。[[1971年]]には、国家連合崩壊後もエジプトの国号として使用されてきた「アラブ連合共和国」の国号を捨てて'''エジプト・アラブ共和国'''に改称した。また、サーダートは、経済の開放などに舵を切るうえで、左派に対抗させるべくイスラーム主義勢力を一部容認した。しかしサーダートは、イスラエルとの和平を実現させたことの反発を買い、[[1981年]]に[[イスラム過激派]]の[[ジハード団]]によって[[暗殺]]された。\n\n=== ムバーラク政権 ===\n[[ファイル:Hosni Mubarak ritratto.jpg|thumb|180px|[[アラブの春]]で失脚するまで30年以上にわたり長期政権を維持した[[ホスニー・ムバーラク]]]]\n[[イラク]]の[[クウェート侵攻]]はエジプトの国際収支を悪化させた。サーダートに代わって副大統領から大統領に昇格した[[ホスニー・ムバーラク]]は、対米協調外交を進める一方、[[開発独裁]]的な[[政権]]を20年以上にわたって維持した。\n\nムバラク政権は1990年12月に「1000日計画」と称する経済改革案を発表した。クウェート解放を目指す[[湾岸戦争]]では[[多国籍軍]]へ2万人を派兵し、これにより約130億ドルも[[対外債務]]を減らすという外交成果を得た。累積債務は500億ドル規模であった。軍事貢献により帳消しとなった債務は、クウェート、[[サウジアラビア]]に対するものと、さらに対米軍事債務67億ドルであった。1991年5月には[[国際通貨基金]]のスタンドバイクレジットおよび[[世界銀行]]の構造調整借款(SAL)が供与され、[[パリクラブ]]において200億ドルの債務削減が合意された。エジプト経済の構造調整で画期的だったのは、ドル・ペッグによる為替レート一本化であった<ref>『エジプトの経済発展の現状と課題』 [[海外経済協力基金]]開発援助研究所 1998年 23頁</ref>。\n\n海外の[[機関投資家]]に有利な条件が整えられていった。イスラム主義運動は厳しく[[弾圧]]され、[[ザカート|喜捨]]の精神は失われていった。[[1997年]]には[[イスラム集団]]による[[ルクソール事件]]が発生している。1999年にイスラム集団は武装闘争放棄を宣言し、近年、観光客を狙った事件は起こっていない。しかし、ムバーラクが大統領就任と同時に発令した[[非常事態法]]は、彼が追放されるまで30年以上にわたって継続された<ref>[http://www.cnn.co.jp/world/30001719.html エジプト副大統領が野党代表者らと会談、譲歩示す]</ref>。\n\n2002年6月、エジプト政府は15億ドルの[[ユーロ債]]を起債したが、2002年から2003年に為替差損を被り、対外債務を増加させた<ref>IMF, ''Arab Republic of Egypt: Selected Issues'', 2005, [https://books.google.co.jp/books?id=aZDSd_fjJzkC&pg=PT49&dq=reschedule+egypt+eurobond&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwiD0qHpn8DbAhWLWbwKHXRrDGQQ6AEIJzAA#v=onepage&q=reschedule%20egypt%20eurobond&f=false]</ref>。\n\n=== ムルシー政権 ===\n[[ファイル:Mohamed Morsi-05-2013.jpg|thumb|180px|民主化後初の大統領だった[[ムハンマド・ムルシー]]]]\n{{Main|エジプト革命 (2011年)|2012年エジプト大統領選挙}}\n[[チュニジア]]の[[ジャスミン革命]]に端を発した近隣諸国の民主化運動がエジプトにおいても波及し、[[2011年]]1月、30年以上にわたって独裁体制を敷いてきたムバーラク大統領の辞任を求める大規模なデモが発生した。同2月には大統領支持派によるデモも発生して騒乱となり、国内主要都市において大混乱を招いた。大統領辞任を求める声は日に日に高まり、2月11日、ムバーラクは大統領を辞任し、全権が[[エジプト軍最高評議会]]に委譲された。同年12月7日には{{仮リンク|カマール・ガンズーリ|en|Kamal Ganzouri}}を暫定首相とする政権が発足した。その後、2011年12月から翌年1月にかけて人民議会選挙が、また2012年5月から6月にかけて大統領選挙が実施され[[ムハンマド・ムルシー]]が当選し、同年6月30日の大統領に就任したが、人民議会は大統領選挙決選投票直前に、選挙法が違憲との理由で裁判所から解散命令を出されており、立法権は軍最高評議会が有することとなった。\n\n2012年11月以降、新憲法の制定などをめぐって反政府デモや暴動が頻発した({{仮リンク|2012年-13年エジプト抗議運動|en|2012–13 Egyptian protests}})。ムルシー政権は、政権への不満が大規模な暴動に発展するにつれて、当初の警察改革を進める代わりに既存の組織を温存する方向に転換した。{{仮リンク|ムハンマド・イブラヒーム・ムスタファ|ar|محمد إبراهيم مصطفى|label=ムハンマド・イブラヒーム}}が内相に就任した[[2013年]]1月以降、治安部隊による政治家やデモ隊への攻撃が激化。1月末には当局との衝突でデモ参加者など40人以上が死亡したが、治安部隊への調査や処罰は行われていない<ref>「『アラブの春』の国で繰り返される悪夢」 エリン・カニンガム 『Newsweek[[ニューズウィーク]]日本版』 2013年3月5日号</ref>。イブラヒーム内相は、「国民が望むならば辞任する用意がある」と2月に述べている<ref>{{Cite news\n|url=http://english.ahram.org.eg/News/63894.aspx\n|title=I will leave my position if people want: Egypt's interior minister\n|newspaper=アハラムオンライン\n|date=2013-02-02\n|accessdate=2013-05-08\n}}</ref>。下落する[[エジプト・ポンド]]がとめどなく[[アメリカ合衆国ドル|USドル]]に交換され、[[外貨準備]]を減らすような混乱が同月10日の[[ロイター通信]]で報じられている。下落は1月から起きており、同月には[[ドバイ]]のエミレーツNBD([[:en:Emirates NBD|Emirates NBD]])が[[BNPパリバ]]のエジプト支店を完全買収した。[[オイルマネー]]がエジプト経済を我が物にする社会現象が起こっていた。さらに『[[フィナンシャル・タイムズ]]』が1月19日に報じたのは、[[エチオピア]]がナイルの川上に48億ドルの予算をかけて[[ダム]]を造るという計画であった。混乱中のエジプトが水紛争で負ければ大きな水ストレスが生じるだろうと予測された。\n\n2013年4月、[[エジプト中央銀行]]は[[リビア]]から20億ドルの預金を得た。リビア側が利害を説明したところによると、リビアはエジプト株を100億ドル近く保有しているという。リビアは[[世界金融危機]]の時から欧米の[[メガバンク]]と癒着を疑われている。\n\nムルシー政権は発足後約1年後の[[2013年エジプトクーデター|2013年7月3日、軍部によるクーデター]]によって終焉を迎えた<ref>{{Cite news\n|url=http://middleeast.asahi.com/watch/2013070800008.html\n|title=エジプトのクーデターに至る過程:朝日新聞記事再録\n|work=asahi.com\n|newspaper=[[朝日新聞]]\n|date=2013-07-09\n|accessdate=2013-07-13\n}}</ref>。8月下旬にムバラクが釈放され、国内銀行が平常運転に復帰した。8月30日の[[CNN]]では、[[中国石油化工]]が米国[[ヒューストン]]のアパッチ([[:en:Apache Corporation|Apache Corporation]])とエジプト内[[油田]]事業を提携したことが報じられた。10月下旬、[[アラブ首長国連邦]]がエジプトに50億ドルの支援を申し出た。エジプトエリートの売国とソブリン危機は翌年4月まで深化していった。\n\nなお、イブラヒームは、クーデター後に成立した[[ハーゼム・エル=ベブラーウィー|ベブラーウィー]]暫定内閣でも続投している。\n\n=== アッ=シーシー政権 ===\n[[ファイル:Abdel_Fattah_el-Sisi_September_2017.jpg|thumb|180px|[[アブドルファッターフ・アッ=シーシー]]。2013年のクーデターを主導し、大統領に就任した]]\n2014年5月26日 - 28日に行われた大統領選挙では2013年のクーデターの主導者[[アブドルファッターフ・アッ=シーシー]]が当選して6月8日、大統領に就任し<ref>http://www.afpbb.com/articles/-/3017089 エジプトのシシ新大統領が就任、前大統領の追放からほぼ1年</ref>、8月5日からは[[新スエズ運河]]の建設など大規模なプロジェクトを推し進めた。[[2015年]][[3月13日]]には、[[カイロ]]の東側に向こう5 - 7年で、450億ドルを投じて新しい行政首都の建設も計画していることを明らかにした<ref>http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPKBN0MC0B720150316 エジプト、カイロの東に新行政首都建設へ=住宅相(ロイター通信)</ref>。行政と経済の中心となる新首都はカイロと紅海の間に建設され、広さは約700平方キロメートルで、米[[ニューヨーク]]の[[マンハッタン]]のおよそ12倍の面積の予定であり<ref>http://jp.wsj.com/articles/SB10030317691824024149004580519060782977390 エジプト、新首都建設を計画―カイロと紅海の間に</ref>、大統領府などエジプトの行政を担う地区は当初覚書を交わした[[アラブ首長国連邦]](UAE)の[[エマール・プロパティーズ]]や[[中華人民共和国|中国]]の[[中国建築|中国建築股份有限公司]]との破談はあったものの[[2016年]]4月に地元企業によって工事を開始し<ref>{{Cite news|url=http://www.xinhuanet.com/english/2016-04/02/c_135246252.htm|tile=Egypt kicks off 1st phase of building new capital|work= [[新華社]]|date=2016-04-02|accessdate=2018-06-25}}</ref>、代わりにエジプト政府がピラミッド<ref>{{Cite news|url= https://zhuanlan.zhihu.com/p/41444500|title=埃及总理表示,将新首都CBD项目建成“金字塔”一样的地标|work= 知乎专栏|date=2018-08-06|accessdate=2018-08-18}}</ref>に匹敵する一大事業の[[ランドマーク]]と位置づけている、アフリカでもっとも高いビルも建設予定である経済を担う[[中央業務地区]]を中国企業が請け負って[[2018年]]3月に着工した<ref>{{Cite news|url=http://www.xinhuanet.com/english/2017-10/12/c_136672905.htm|tile=Chinese firm finalizes deal for building huge business district in Egypt's new capital|work= amwalalghad|date=2017-10-12|accessdate=2018-07-28}}</ref><ref>{{Cite news|url=http://en.amwalalghad.com/china-to-build-egypt-africa-tallest-tower-in-new-capital-spokesperson/|tile=China to build Egypt-Africa tallest tower in new capital: spokesperson|work= amwalalghad|date=2018-06-28|accessdate=2018-06-29}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.bloomberg.com/news/articles/2018-03-18/china-to-finance-majority-of-new-egypt-capital-s-tower-district|tile=China to Finance Majority of New Egypt Capital's Tower District|work= [[ブルームバーグ (企業)|ブルームバーグ]]|date=2018-03-18|accessdate=2018-07-28}}</ref><ref>{{Cite news|url= http://eg.mofcom.gov.cn/article/todayheader/201803/20180302720170.shtml|title=中建埃及新行政首都CBD项目开工仪式在开罗举行|work= 中華人民共和国駐エジプト大使館|date=2018-03-21|accessdate=2018-06-25}}</ref>。\n\nUAEや中国と破談した背景には通貨不安が存在する。2016年11月3日、エジプト中央銀行が[[変動相場制]]を採用すると発表した。エジプト・ポンドが売られるのを革命の影響だけで片付けるには、この不安は長引きすぎている。同行は6日後、国際金融機関から20億ドルの[[シャドー・バンキング・システム#レポ市場|レポ借入]]を始めた。4月に[[国際通貨基金]]からも120億ドルを借りている。エジプトは経済主権を失っている。[[ガーディアン]]が10月4日に報じたところでは、国際金融機関の[[バークレイズ]]がエジプト事業を[[ダノン#ワファバンク|ワファバンク]]に売却した。\n\n2017年末、政府が[[世界銀行]]に対し、エチオピアのダム事業を差し止めるように要請した。世銀は5月にエジプトへ10億ドルを追加融資しており、エジプトは厳しい立場にある。翌2018年1月中旬にエチオピアとの水紛争が妥協に至った。5月末にエジプトの対外債務累積額は829億ドルであった。9月、ムバラクの息子ら2人([[:en:Gamal Mubarak|Gamal]] and [[:en:Alaa Mubarak|Alaa]])がエジプトの株価を操作した疑いで逮捕された。\n\n== 政治 ==\n{{エジプトの政治}}\n{{Main2|詳細は{{仮リンク|エジプトの政治|en|Politics of Egypt|ar|السياسة في مصر}}および[[近代エジプトの国家元首の一覧]]}}\n\n=== 政体 ===\n[[共和制]]\n=== 大統領 ===\n[[国家元首]]の大統領は、立法・行政・司法の三権において大きな権限を有する。また国軍([[エジプト軍]])の[[総司令官|最高司令官]]でもある。大統領の選出は、[[直接選挙]]による。任期は4年で、三選禁止となった<ref>{{Cite journal|和書|author = 鈴木恵美|coauthors = |title = エジプト革命以後の新体制形成過程における軍の役割|journal = 地域研究|volume = 12|issue = 1|pages = 135-147|publisher = 京都大学地域研究統合情報センター|location = |date = 2012-03-28|language = |url = http://www.cias.kyoto-u.ac.jp/publish/?cat=4|jstor = |issn = 1349-5038 |isbn =978-4-8122-1178-6|doi = |id = |naid = |accessdate = 2012-06-17}}</ref>。最高大統領選挙委員会(The Supreme Presidential Election Commission, SPEC)委員長は、最高憲法裁判所長官が兼任していたが、現在は副長官がその任を負う。\n\n第2代大統領[[ガマール・アブドゥル=ナーセル]]以来、事実上の終身制が慣例で、第4代大統領[[ホスニー・ムバーラク]]は[[1981年]]の就任以来、約30年にわたって[[独裁]]体制を築いた。ムバーラクの[[親米]]・親[[イスラエル]]路線が欧米諸国によって評価されたために、独裁が見逃されてきた面がある。当時は任期6年、多選可。議会が候補者を指名し、国民は[[信任投票]]を行っていた。ただし、2005年は複数候補者による大統領選挙が実施された。\n\n[[2011年]]9月に大統領選が予定されていたが、2011年1月に騒乱状態となり、[[2月11日]]、ムバーラクは国民の突き上げを受ける形で辞任した。翌日より[[国防大臣]]で[[エジプト軍最高評議会|軍最高評議会]]議長の[[ムハンマド・フセイン・タンターウィー]]が元首代行を務め、それは[[2012年エジプト大統領選挙]]の当選者[[ムハンマド・ムルシー]]が[[6月30日]]に大統領に就任するまで続いた。2011年[[3月19日]]、[[憲法改正]]に関する[[国民投票]]が行われ、承認された<ref name=jpnmofa>{{Cite web|title = エジプト・アラブ共和国 基礎データ|work = 各国:地域情勢|publisher = 外務省(日本)|url = http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/egypt/data.html|accessdate =2016-10-01}}</ref><ref>{{Cite web|title = エジプト基礎情報~政治・外交|work = エジプト情報|publisher = 在エジプト日本国大使館|date = 2011-07-30|url = http://www.eg.emb-japan.go.jp/j/egypt_info/basic/seiji.htm|accessdate =2016-10-01}}</ref>。\n\nしかしムルシー政権発足からわずか1年後の2013年、[[2013年エジプトクーデター|軍事クーデター]]が勃発。ムルシーは解任され、エジプトは再び軍による統治へと逆戻りした。2014年1月に再び憲法が修正され<ref name=jpnmofa />、同年5月の大統領選挙を経て再び民政へと復帰した。\n\n=== 議会 ===\n議会は、[[一院制]]の'''人民議会'''(マジュリス・アッ=シャアブ)。全508議席で、498議席は公選、10議席は大統領指名枠<ref>2011年12月現在では、定数498議席のうち、3分の2(332議席)が政党(連合)リストによる[[比例代表制]]で、3分の1(166議席)が[[小選挙区制]]で選出される</ref>。任期5年。これとは別に、'''諮問評議会'''(シューラ)が1980年設置されたが、立法権は有さない大統領の諮問機関である<ref>{{Cite web| author = 鈴木恵美\n | coauthors =\n | title = エジプト\n | work = 中東・イスラーム諸国の民主化\n | publisher = NIHU プログラム・イスラーム地域研究、東京大学拠点\n | date =\n | url = http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~dbmedm06/me_d13n/database/egypt/egypt_all.html\n | format =\n | doi =\n | accessdate = 2012-06-15}}</ref>。全270議席で、180議席が公選、90議席が大統領指名枠。\n\n=== 選挙 ===\n2011年[[11月21日]]、[[イサーム・シャラフ]]暫定内閣は、デモと中央[[治安部隊]]の衝突で多数の死者が出たことの責任を取り軍最高評議会へ辞表を提出した。軍最高評議会議長タンターウィーは[[11月22日]]テレビで演説し、「28日からの人民議会選挙を予定通り実施し、次期大統領選挙を2012年6月末までに実施する」と表明した<ref>[http://www.asahi.com/special/meastdemo/TKY201111220122.html エジプト・シャラフ内閣が総辞職表明 デモの混乱で引責] 『朝日新聞』 2011年11月22日</ref><ref>[http://www.asahi.com/special/meastdemo/TKY201111230004.html エジプト軍議長「近く挙国一致内閣」とテレビ演説] 『朝日新聞』 2011年11月23日</ref><ref>[http://www.asahi.com/special/meastdemo/TKY201111250136.html エジプト軍議長、元首相に組閣要請 選挙管理内閣を想定] 『朝日新聞』 2011年11月25日</ref>。人民議会選挙は2011年[[11月28日]]から[[2012年]][[1月]]までに、行政区ごとに3回に分けて、また、投票日を1日で終わりにせず2日間をとり、大勢の投票での混乱を緩和し実施、諮問評議会選挙も[[3月11日]]までに実施された。また[[5月23日]]と[[5月24日|24日]]に[[2012年エジプト大統領選挙|大統領選挙]]の投票が実施された。\n\nしかし、[[6月14日]]に最高[[憲法裁判所]]が出した「現行の議会選挙法は違憲で無効(3分の1の議員について当選を無効と認定)」との判決を受け<ref>[http://www.asahi.com/international/reuters/RTR201206150031.html「エジプト議会選は無効」、憲法裁が大統領選直前に違法判断] 『朝日新聞』 2012年6月15日</ref><ref>[http://www.news24.jp/articles/2012/06/15/10207632.html エジプト議会、解散へ 大統領選にも影響か] [[日テレNEWS24]] 2012年6月15日</ref>、[[6月16日|16日]]までにタンターウィー議長は人民議会解散を命じた<ref>{{Cite news\n  | author = カイロ共同\n | title = エジプト、軍が議会に解散命令 憲法裁判所の判断で\n | newspaper = 47NEWS\n | location =\n | pages = 6\n | language =\n | publisher = 共同通信\n | date = 2012-06-18\n | url = http://www.47news.jp/CN/201206/CN2012061701001315.html\n | accessdate = 2012-06-18}}</ref>。大統領選挙の決選投票は6月16日と[[6月17日|17日]]に実施され、イスラム主義系の[[ムハンマド・ムルシー]]が当選した。\n\n=== 政党 ===\n{{main|エジプトの政党}}\n\n2011年3月28日に改正政党法が公表され、エジプトでは[[宗教]]を基盤とした[[政党]]が禁止された。そのため、[[ムスリム同胞団]](事実上の最大[[野党]]であった)などは非合法化され、初めての選挙(人民議会選挙)では、ムスリム同胞団を母体とする[[自由公正党]]({{lang-ar|حزب الحرية والعدالة}} - {{lang|en|Ḥizb Al-Ḥurriya Wal-’Adala}}, {{lang-en-short|Freedom and Justice Party}})が結成された。また、[[ヌール党]]([[サラフィー主義]]、イスラーム保守派)、[[新ワフド党]](エジプト最古の政党)、[[政党連合]]{{仮リンク|エジプト・ブロック|en|Egyptian Bloc}}(含む[[自由エジプト人党]](世俗派)、[[エジプト社会民主党]](中道左派)、[[国民進歩統一党]](左派))、[[ワサト党]]、{{仮リンク|政党連合革命継続|en|The Revolution Continues Alliance}}、{{仮リンク|アダラ党|en|Justice Party (Egypt)|label=公正党}}({{lang-ar|حزب العدل}} - {{lang|en|Hizb ElAdl}}, {{lang-en-short|Justice Party}}、今回の革命の中心を担った青年活動家による政党)など、全部で50以上の政党が参加していた<ref>{{Cite web\n | last =\n | first =\n | authorlink =\n | coauthors =\n | title = エジプト・アラブ共和国 基礎データ\n | work = 各国:地域情勢\n | publisher = 外務省(日本)\n | date =\n | url = http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/egypt/data.html\n | format =\n | doi =\n | accessdate =2012-06-17 }}</ref><ref>{{Cite web\n | last =\n | first =\n | authorlink =\n | coauthors =\n | title = エジプト基礎情報~政治・外交\n | work = エジプト情報\n | publisher = 在エジプト日本国大使館\n | date = 2011-07-30\n | url = http://www.eg.emb-japan.go.jp/j/egypt_info/basic/seiji.htm\n | format =\n | doi =\n | accessdate =2012-06-17 }}</ref>。\n\n=== 政府 ===\n* {{仮リンク|エジプトの首相|en|Prime Minister of Egypt|label=首相}}・{{仮リンク|ムスタファ・マドブーリー|en|Moustafa Madbouly}} 2018年6月就任。\n* {{仮リンク|エジプトの国防大臣の一覧|en|List of Ministers of Defence of Egypt|label=国防大臣}}・{{仮リンク|セドキ・ソブヒィ|en|Sedki Sobhi}} 2014年3月就任、エジプト軍総司令官。\n\n== 司法 ==\n{{Main2|詳細は[[エジプトの法]]}}\n[[ナポレオン法典]]と[[イスラム法]]に基づく、混合した法システム<ref>{{Cite web|title = Egypt| publisher = CIA-The World Factbook| url = https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/eg.html| accessdate = 2012-06-15}}</ref>。フランスと同じく、司法訴訟と行政訴訟は別の系統の裁判所が担当する。{{仮リンク|フランスにおける裁判所の二元性|fr|Dualité des ordres de juridiction en France}}参照。\n* {{仮リンク|最高憲法裁判所|en|Supreme Constitutional Court of Egypt}} - 法律が違憲か否かを判断する。1979年設立。長官はアドリー・マンスール(2013年7月1日 - )<ref>{{Cite web| title = Aperçu Historique | publisher = 最高憲法裁判所\n  | url =http://www.hccourt.gov.eg/About/history.asp\n | accessdate = 2013-08-27}}</ref>。ほか、10人の判事は1998年から2013年7月までに着任している<ref>{{Cite web| title = Current Members of the Court | publisher = 最高憲法裁判所\n | date =\n | url =http://www.hccourt.gov.eg/CourtMembers/CurrentCourt.asp\n | accessdate = 2013-08-27}}</ref>。長官は[[最高大統領選挙委員会]](The Supreme Presidential Election Commission, SPEC)の委員長を兼任していた<ref>{{Cite news\n | author = 貫洞欣寛\n| title = エジプト司法が逆襲 ムバラク裁判「判決批判許さん」\n | newspaper = 朝日新聞 | date = 2012-06-09\n | url = http://digital.asahi.com/articles/TKY201206080567.html?ref=comkiji_txt_end\n | accessdate = 2012-06-15}}</ref>が、2012年9月には副長官ハーティム・バガートゥーが務めていた<ref>{{Cite web\n | title = 中東要人講演会\n | newspaper = 中東調査会 | date =\n | url = http://www.meij.or.jp/members/20120903124551000000.pdf\n | accessdate = 2012-09-09}}</ref>。\n* [[司法省]]管轄の一般の[[裁判所]] - [[最高裁判所]]([[破毀院]]、1931年設立)と以下の[[下級裁判所]]([[控訴院]]、[[第一審]]裁判所、[[地区裁判所]]および[[家庭裁判所]] - 2004年設立)からなる。\n* [[国務院]]管轄の[[行政裁判所]] - [[コンセイユ・デタ]] - 1946年設立<ref>{{Cite web| title = Judiciary Authority| publisher = Egypt State Information Service\n| url =http://www.sis.gov.eg/En/Templates/Categories/tmpListArticles.aspx?CatID=248\n | accessdate = 2013-08-29}}</ref>。2011年[[2月19日]]、従来の[[政党委員会]](政府運営)の申請却下に対する不服申し立てを認めた形の判決で、[[政党]]の許認可<ref>{{Cite web| title = エジプトでイスラーム政党が認可 | work =[中東研ニュースリポート]| publisher = [[日本エネルギー経済研究所]] 中東研究センター| date = 2月21日\n | url =http://jime.ieej.or.jp/htm/extra/ronbun/003pol.htm\n | format =\n | doi =\n | accessdate = 2012-05-19}}</ref>を、[[4月16日]]、[[与党]]・[[国民民主党 (エジプト)|国民民主党]](NDP)の解散を裁定した。\n\n== 国際関係 ==\n{{main|{{仮リンク|エジプトの国際関係|en|Foreign relations of Egypt}}}}\n国力、文化的影響力などの面からアラブ世界のリーダーとなっている。ガマール・アブドゥル=ナーセル時代には[[非同盟諸国]]の雄としてアラブに限らない影響力を持ったが、ナーセル死後はその影響力は衰えた。ナーセル時代は親ソ連だった外交はサーダート時代に入って親米路線となり、さらにそれに伴いイスラエルとの外交関係が進展。1978年の[[キャンプ・デービッド合意]]とその翌年のイスラエル国交回復によって親米路線は確立したが、これはイスラエルを仇敵とするアラブ諸国の憤激を買い、ほとんどのアラブ諸国から断交されることとなった。その後、[[1981年]]にサーダートが暗殺されたあとに政権を握ったムバーラクは親米路線を堅持する一方、アラブ諸国との関係回復を進め、1988年には[[シリア]]、[[レバノン]]、[[リビア]]を除くすべてのアラブ諸国との関係が回復した<ref>『アフリカを知る事典』、平凡社、ISBN 4-582-12623-5 1989年2月6日 初版第1刷 p.58</ref>。以降はアラブの大国として域内諸国と協調する一方、アフリカの一国として2004年9月には[[国際連合安全保障理事会]]の[[常任理事国]]入りを目指すことを表明した。[[2011年]]、[[パレスチナ]]の[[ガザ]]の[[国境検問所|検問所]]を開放した。また、[[イラン]]との関係を修復しようとしている<ref>[http://www.asyura2.com/11/lunchbreak47/msg/284.html エジプト:ガザ、出入り自由に 検問所開放、外交転換鮮明に]</ref>。\n\nシーシー政権はムスリム同胞団政権時代のこうした外交政策とは一線を画している。欧米や日本、親米アラブ諸国、イスラエルのほか、中国や[[ロシア]]<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO24487270R11C17A2FF2000/ 「ロシアが中東に接近 プーチン大統領、エジプトに軍事協力 米の中東政策の揺らぎつく」][[日本経済新聞]]ニュースサイト(2017年12月11日)2019年1月9日閲覧。</ref>などと広範な協力関係を築いている。\n\n[[2017年カタール外交危機]]では、サウジアラビアとともに、ムスリム同胞団を支援してきたカタールと[[国交]]を断絶した国のひとつとなった。またサウジアラビアとは、[[アカバ湾]]口に架橋して陸上往来を可能とするプロジェクトが話し合われた([[チラン島]]を参照)。\n\n=== 日本国との関係 ===\n{{Main|日本とエジプトの関係}}\n\n== 軍事 ==\n[[ファイル:Abrams in Tahrir.jpg|thumb|陸軍の主力戦車[[M1エイブラムス]]]]\n{{Main|エジプト軍}}\n中東有数の軍事大国であり、イスラエルと軍事的に対抗できる数少ないアラブ国家であると目されている。2010年11月見積もりの総兵力は46万8,500人。[[予備役]]47万9,000人。兵員数は[[陸軍]]34万人([[軍警察]]を含む)、[[海軍]]1万8,500人([[沿岸警備隊]]を含む)、[[空軍]]3万人、[[防空軍]]8万人<ref>{{Cite book\n | title = The Middle East and North Africa 2012\n | publisher = Routledge\n | edition = 58th\n | date = 2011\n | page = 380\n | isbn = 978-1-85743-626-6}}</ref>。内務省管轄の中央[[治安部隊]]、[[国境警備隊]]と国防省管轄の革命[[国家警備隊]](大統領[[親衛隊]])の[[準軍事組織]]が存在する。\n\nイスラエルとは4度にわたる[[中東戦争]]で毎回干戈を交えたが、[[第二次中東戦争]]で政治的な勝利を得、[[第四次中東戦争]]の緒戦で勝利を収めたほかは劣勢のまま終わっている。その後はイスラエルと接近し、シーシー政権下ではシナイ半島で活動する[[イスラム過激派]]([[ISIS]])に対する掃討作戦で、[[イスラエル空軍]]による[[爆撃]]を容認していることを公式に認めた<ref>[http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/list/201901/CK2019010602000123.html 「対IS イスラエルと協力」エジプト大統領 治安重視]『[[東京新聞]]』朝刊2019年1月6日(国際面)2019年1月9日閲覧。</ref>。\n\n軍事的にはアメリカと協力関係にあるため、[[北大西洋条約機構]](NATO)のメンバーではないものの同機構とは親密な関係を保っている。また、ロシアや中国からも武器の供給を受けており、中露の主導する[[上海協力機構]]への参加も申請している<ref>{{Cite web|date=2015-07-11|url=http://jp.sputniknews.com/politics/20150710/556387.html|title=上海協力機構事務総長:機構はカラー革命など恐れていない|publisher=Sputnik 日本|accessdate=2019-08-18}}</ref><ref>{{Cite web|date=2015-07-27|url=http://arab.rbth.com/news/2015/07/27/30859.html|title=وزير الخارجية المصري: مصر لا تستبعد عضويتها في منظمة \"شنغهاي\" للتعاون في المستقبل | روسيا ما وراء العناوين|publisher=ロシアNOWアラビア語版|accessdate=2019-08-18}}</ref><ref>{{Cite web|date=2016-06-23|url=http://www.interfax.com/newsinf.asp?id=683491|title=Syria, Israel, Egypt willing to join SCO's activity - president's special envoy|publisher=[[インテルファクス通信]]|accessdate=2019-08-18}}</ref>。\n\n== 地方行政区画 ==\n[[ファイル:Governorates of Egypt.svg|thumb|right|280px|エジプトの行政区画]]\n{{Main|エジプトの県}}\nエジプトの最上級の地方行政単位は、29あるムハーファザ({{lang|ar|محافظة}}, '''県'''、'''州''' と訳されることもある)である。[[知事]]は中央政府から派遣される官選知事で、内務省の管轄下において中央集権体制をとる。極端な行政区分でナイル川流域やナイル下流は非常に細分化されているにもかかわらず、南部は非常に大まかに分けられている。これは、ナイル流域以外が全域砂漠であり、居住者がほとんどいないことによるものである。\n\n=== 主要都市 ===\n{{Main|エジプトの都市の一覧}}\n{{Main|エジプトの県}}\n{{Col-begin}}\n{{Col-break}}\n* [[アシュート]]\n* [[アスワン]]\n* [[マラウィー]]\n* [[アブ・シンベル]]\n* [[アレクサンドリア]]\n* [[イスマイリア]]\n* [[インバーバ]]\n* [[エスナ]]\n* [[エドフ]]\n* [[エル・アラメイン]]\n* [[カイロ]]\n{{Col-break}}\n* [[ケナ]]\n* [[ギーザ]]\n* [[コム・オンボ]]\n* [[ザガジグ]]\n* [[サッカラ]]\n* [[シャルム・エル・シェイク]]\n* [[スエズ]]\n* [[スブラエルケーマ]]\n* [[ソハーグ県|ソハーグ]]\n* [[ダマンフール]]\n* [[タンター]]\n{{Col-break}}\n* [[ディムヤート]]\n* [[ハルガダ]]\n* [[ファイユーム]]\n* [[ベニスエフ]]\n* [[ポートサイド]]\n* [[エル=マハッラ・エル=コブラ|マハッラ・クブラー]]\n* [[マンスーラ]]\n* [[ミニヤー県|ミニヤ]]\n* [[メンフィス (エジプト)]]\n* [[ルクソール]]\n* [[ロゼッタ (エジプト)|ロゼッタ]]\n{{Col-end}}\n<!-- 五十音順 -->\n\n== 地理 ==\n{{Main2|詳細は{{仮リンク|エジプトの地理|en|Geography of Egypt}}}}\n[[ファイル:Egypt Topography.png|thumb|200px|エジプトの地形図]]\n[[ファイル:Egypt 2010 population density1.png|thumb|200px|エジプトの人口分布図]]\n[[アフリカ大陸]]北東隅に位置し、国土面積は100万2,450㎢で、世界で30番目の大きさである。国土の95%は砂漠で、ナイル川の西側には[[サハラ砂漠]]の一部である西部砂漠([[リビア砂漠]])、東側には[[紅海]]と[[スエズ湾]]に接する[[東部砂漠]]({{lang|ar|الصحراء الشرقية}} - シャルキーヤ砂漠)がある。西部砂漠には海抜0m以下という地域が多く、面積1万8,000km<sup>2</sup>の広さをもつ[[カッターラ低地]]は海面より133mも低く、[[ジブチ]]の[[アッサル湖]]に次いでアフリカ大陸で2番目に低い地点である。[[シナイ半島]]の北部は砂漠、南部は山地になっており、エジプト最高峰の[[カテリーナ山]](2,637m)や、[[旧約聖書]]で[[モーセ]]が[[モーセの十戒|十戒]]を授かったといわれる[[シナイ山]](2,285m)がある。シナイ半島とナイル河谷との間は[[スエズ湾]]が大きく湾入して細くくびれており、ここが[[アフリカ大陸]]と[[ユーラシア大陸]]の境目とされている。この細い部分は低地であるため、[[スエズ運河]]が建設され、紅海と地中海、ひいてはヨーロッパとアジアを結ぶ大動脈となっている。\n[[ファイル:S F-E-CAMERON 2006-10-EGYPT-LUXOR-0439.JPG|thumb|left|200px|[[ナイル川]]]]\n[[ナイル川]]は南隣の[[スーダン]]で[[白ナイル川]]と[[青ナイル川]]が合流し、エジプト国内を南北1,545Kmにもわたって北上し、河口で広大な[[三角州|デルタ]]を形成して[[地中海]]にそそぐ。[[アスワン]]以北は人口稠密な河谷が続くが、幅は5Kmほどとさほど広くない。上エジプト中部のキーナでの湾曲以降はやや幅が広がり<ref>『朝倉世界地理講座 アフリカI』初版所収「ナイル川の自然形態」春山成子、2007年4月10日(朝倉書店)p198</ref>、[[アシュート]]近辺で分岐の支流が[[ファイユーム]]近郊の[[モエリス湖|カールーン湖]]({{lang|ar|Birket Qarun}}、かつての[[モエリス湖]])へと流れ込む。この支流によって、カールーン湖近辺は肥沃な{{仮リンク|ファイユーム・オアシス|en|Faiyum Oasis}}を形成している。一方、本流は、[[カイロ]]近辺で典型的な扇状三角州となる'''[[ナイル・デルタ]]'''は、地中海に向かって約250Kmも広がっている。かつてはナイル川によって運ばれる土で、デルタ地域は国内でもっとも肥沃な土地だったが、[[アスワン・ハイ・ダム]]によってナイル川の水量が減少したため、地中海から逆に塩水が入りこむようになった。ナイル河谷は、古くから[[下エジプト]]と[[上エジプト]]という、カイロを境にした2つの地域に分けられている。前者はデルタ地域を指し、後者はカイロから上流の谷を指している。ナイル河谷は、世界でももっとも[[人口密度]]の高い地域のひとつである。\n\nナイル河谷以外にはほとんど人は住まず、わずかな人が[[オアシス]]に集住しているのみである。乾燥が激しく地形がなだらかなため、特にリビア砂漠側には[[ワジ]](涸れ川)が全くない。[[シワ・オアシス|シーワ]]、[[ファラフラ (エジプト)|ファラーフラ]]、[[ハルガ]]、バハレイヤ、ダフラといった[[オアシス]]が点在している<ref>『ミリオーネ全世界事典』第10巻 アフリカI([[学習研究社]]、1980年11月)p206</ref>。ナイル以東のシャルキーヤ砂漠は地形がやや急峻であり、ワジがいくつか存在する。紅海沿岸も降雨はほとんどないが、ナイルと[[アラビア半島]]を結ぶ重要な交通路に位置しているため、いくつかの小さな港が存在する。\n\n=== 国境 ===\n1885年に列強が[[ドイツ]]の[[ベルリン]]で開いた会議で、それまでに植民地化していたアフリカの分割を確定した。リビア国境の大部分で[[東経25度線|東経25度]]に、スーダンでは[[北緯22度線|北緯22度]]に定めたため、国境が直線的である。\n\nスーダンとの間では、エジプトが[[実効支配]]する[[ハラーイブ・トライアングル]]に対してスーダンも領有権を主張している。一方、その西にある[[ビル・タウィール]]は両国とも領有権を主張していない[[無主地]]である。\n\n=== 気候 ===\n{{Main2|詳細は{{仮リンク|エジプトの気候|en|Climate of Egypt}}}}\n国土の全域が[[砂漠気候]]で人口はナイル河谷および[[デルタ地帯]]、[[スエズ運河]]付近に集中し、国土の大半は[[サハラ砂漠]]に属する。夏には日中の気温は40℃を超え、50℃になることもある。降雨はわずかに[[地中海|地中海岸]]にあるにすぎない。冬の平均気温は下エジプトで13 - 14℃、上エジプトで16℃程度である。2013年12月にはカイロ市内でも降雪・積雪があったが、観測史上初ということで注目された。\n\n== 経済 ==\n{{Main2|詳細は{{仮リンク|エジプトの経済|en|Economy of Egypt}}}}\n[[ファイル:View from Cairo Tower 31march2007.jpg|thumb|left|220px|カイロはビジネス、文化、政治などを総合評価した[[世界都市#世界と指数|世界都市格付け]]でアフリカ第1位の都市と評価された<ref>[http://www.atkearney.com/documents/10192/4461492/Global+Cities+Present+and+Future-GCI+2014.pdf/3628fd7d-70be-41bf-99d6-4c8eaf984cd5 2014 Global Cities Index and Emerging Cities Outlook] (2014年4月公表)</ref>]]\n\n2018年のエジプトの[[GDP]]は約2,496億ドル(約27兆円)、一人当たりでは2,573ドルである<ref name=\"economy\" />。アフリカでは屈指の経済規模であり、[[BRICs]]の次に経済発展が期待できるとされている[[NEXT11]]の一国にも数えられている。しかし、一人当たりのGDPでみると、中東や北アフリカ諸国の中では、最低水準であり、[[トルコ]]の約4分の1、[[イラン]]の半分に過ぎず、更に同じ北アフリカ諸国である[[チュニジア]]や[[モロッコ]]に比べても、水準は低い<ref name=\"エジプト経済の現状と今後の展望\" >{{Cite report|author=堀江 正人|date=2019-01-08|title=エジプト経済の現状と今後の展望 ~経済の復調が注目される中東北アフリカの大国エジプト~|url=https://www.murc.jp/report/economy/analysis/research/report_190108/|publisher=[[三菱UFJリサーチ&コンサルティング|三菱UFJリサーチ&コンサルティング株式会社]]|accessdate=2020-02-03}}</ref>。\n\n[[スエズ運河]]収入と[[観光産業]]収入、更には在外労働者からの送金の3大外貨収入の依存が大きく、エジプト政府は、それらの手段に安易に頼っている<ref name=\"エジプト経済の現状と今後の展望\" />。更に政情に左右されやすい。\n\nかつては[[綿花]]の世界的生産地であり、ナイル川のもたらす肥沃な土壌とあいまって農業が重要な役割を果たしていた。しかし、通年灌漑の導入によってナイルの洪水に頼ることが減り、アスワン・ハイ・ダムの建設によって、上流からの土壌がせき止められるようになった。そのため、ダムによる水位コントロールによって農地が大幅に拡大した。農業生産高が格段に上がったにもかかわらず、[[肥料]]の集中投入などが必要になったため、コストが増大し、近年代表的な農業製品である綿製品は価格競争において後塵を拝している。\n\n[[1970年代]]に農業の機械化および各種生産業における機械への転換により、地方での労働力の過剰供給が見受けられ、労働力は都市部に流出し、治安・衛生の悪化及び社会政策費の増大を招いた。80年代には、[[石油]]産業従事者の増大に伴い、農業において労働力不足が顕著となる。このため綿花および綿製品の価格上昇を招き、国際競争力を失った。1990年代から、[[国際通貨基金|IMF]]の支援を受け経済成長率5%を達成するが、社会福祉政策の低所得者向け補助の増大および失業率10%前後と支出の増大に加え、資源に乏しく食料も輸入に頼るため、2004年には物価上昇率10%に達するなどの構造的問題を抱えている。現状、中小企業育成による国際競争力の強化、雇用創生に取り組んでいるが、結果が出ていない。[[2004年]]のナズィーフ内閣が成立後は、国営企業の民営化および税制改革に取り組んでいる。[[2008年]]、世界的な食料高騰によるデモが発生した。\n\nまた、「[[アラブの春]]」により、2012年~2014年の間は2~3%台と一時低迷していたが、その後政情の安定化により、2015年には、4%台に回復している。また[[IMF]]の勧告を受け、2016年に[[為替相場]]の大幅切り下げや[[補助金]]削減などの改革をしたことで、経済健全化への期待感より、外国からの資本流入が拡大していき、経済の復調を遂げている<ref name=\"エジプト経済の現状と今後の展望\" />。\n\n農業は農薬などを大量に使っているため世界一コストの高い農業となっているがそれなりの自給率を保っているし果物は日本にもジャムなどに加工され輸出されている。工業は石油などの資源はないが様々な工業が発展しており今後も成長が見込まれる。近年IT IC産業が急速に成長している。\nしかしながらGDPの約半分が軍関連企業が占めていて主に農業 建築業などの工業を担っている。\n金融はイスラーム銀行も近代式銀行の両方とも発達しており投資家層も厚くトランプ政権にはエジプトの敏腕女性投資家が起用されている。\n\n== 交通 ==\n{{Main|エジプトの交通}}\nエジプトの交通の柱は歴史上常に[[ナイル川]]であった。[[アスワン・ハイ・ダム]]の建設後、ナイル川の流れは穏やかになり、交通路として安定性が増した。しかし貨物輸送はトラック輸送が主となり、内陸水運の貨物国内シェアは2%にすぎない。[[ファルーカ]]という伝統的な[[帆船]]や、観光客用のリバークルーズなどの運航もある。\n\n[[鉄道]]は、国有の[[エジプト鉄道]]が運営している。営業キロは5,063キロにのぼり、カイロを起点として[[ナイル川デルタ]]や[[ナイル河谷]]の主要都市を結んでいる。\n\n航空は、[[フラッグ・キャリア]]である[[エジプト航空]]を筆頭にいくつもの航空会社が運行している。[[カイロ国際空港]]はこの地域の[[ハブ空港]]の一つである。\n\n== 国民 ==\n{{Main2|詳細は{{仮リンク|エジプトの人口統計|en|Demographics of Egypt}}}}\n[[ファイル:Cairo mosques.jpg|thumb|left|220px|[[カイロ]]の[[モスク]]]]\n=== 人口構成 ===\n[[ファイル:Egypt population pyramid 2005.svg|thumb|[[2005年]]の人口ピラミッド。30歳以下の若年層が非常に多く、若者の失業が深刻な問題となっている]]\n[[ファイル:Egypt demography.png|thumb|400px|[[国際連合食糧農業機関]]の2005年データによるエジプト人口の推移。1960年の3,000万人弱から人口が急増しているのが読み取れる]]\nエジプトの人口は8,254万人(2013年1月現在)で、近年急速に増大し続けている。年齢構成は0から14歳が33%、15から64歳が62.7%、65歳以上が4.3%(2010年)で、若年層が非常に多く、ピラミッド型の人口構成をしている。しかし、若年層はさらに増加傾向にあるにもかかわらず、経済はそれほど拡大していないため、若者の[[失業]]が深刻な問題となっており、[[2011年エジプト騒乱]]の原因のひとつともなった。年齢の中央値は24歳である。人口増加率は2.033%。\n\n=== 民族 ===\n{{See also|エジプト民族}}\n住民は[[ムスリム|イスラム教徒]]と[[キリスト教徒]]([[コプト教会]]、[[東方正教会]]など)からなる[[アラブ人]]がほとんどを占め、そのほかに[[ベドウィン]](遊牧民)や[[ベルベル人]]、{{仮リンク|ヌビア人|en|Nubian people}}、[[アルメニア人]]、[[トルコ人]]、[[ギリシア人]]などがいる。遺伝的に見れば、エジプト住民のほとんどが古代エジプト人の直系であり、[[エジプト民族]]との呼称でも呼ばれる所以である。また、エジプト人の大半は、イスラム勢力のエジプト征服とそれに続くイスラム系国家の統治の間に言語学的にアラブ化し、本来のエジプト語を捨てた人々であるとする見解がある。それだけではなく、長いイスラーム統治時代の人的交流と都市としての重要性から、多くのアラブ人が流入・定住していったのも事実である。1258年にアッバース朝が崩壊した際、[[カリフ]]周辺を含む多くの人々がエジプト(おもにカイロ近郊)へ移住したという史実は、中東地域一帯における交流が盛んであったことを示す一例である。現代においてカイロは[[世界都市]]となっており、また歴史的にも[[アル=アズハル大学]]は、イスラム教[[スンナ派]]で最高権威を有する教育機関として、中東・イスラム圏各地から人々が参集する。\n\nなお[[古代エジプト]]文明の印象があまりに大きいためか、特に現代エジプトに対する知識を多く持たない人は、現代のエジプト人を古代エジプト人そのままにイメージしていることが多い。すなわち、[[ギザの大スフィンクス]]や[[ギザの大ピラミッド]]を建て、太陽神やさまざまな神を信仰([[エジプト神話]])していた古代エジプト人を、現代のエジプト人にもそのまま当てはめていることが多い。しかし、上述のとおり現代エジプト人の9割はイスラム教徒であり、アラビア語を母語とするアラブ人である。それもアラブ世界の中で比較的主導的な立場に立つ、代表的なアラブ人のひとつである。\n\n=== 言語 ===\n{{Main2|詳細は{{仮リンク|エジプトの言語|en|Languages of Egypt}}}}\n現在のエジプトでは[[アラビア語]]が[[公用語]]である。これは、イスラムの征服当時にもたらされたもので、エジプトのイスラム化と同時に普及していった。ただし、公用語となっているのは[[正則アラビア語]](フスハー)だが、実際に用いられているのは[[アラビア語エジプト方言]]である{{要出典|date=2012年8月}}<!-- 実際に「通用」の意味か? 行政等の用語は? -->。\n\n古代エジプトの公用語であった[[エジプト語]](4世紀以降の近代エジプト語は[[コプト語]]の名で知られる)は、現在では少数のキリスト教徒が典礼言語として使用するほかはエジプトの歴史に興味を持つ知識層が学んでいるだけであり、これを話せる国民はきわめて少ない。日常言語としてコプト語を使用する母語話者は数十名程度である<ref>[http://www.dailystaregypt.com/article.aspx?ArticleID=106 The Dairy Star of Egypt 2007年1月23日]</ref>。他には地域的に[[ヌビア諸語]]、[[教育]]・[[ビジネス]]に[[英語]]、[[文化_(代表的なトピック)|文化]]においては[[フランス語]]なども使われている。\n\n=== 宗教 ===\n{{Main2|詳細は{{仮リンク|エジプトの宗教|en|Religion in Egypt}}}}\n{{bar box\n|title=宗教構成(エジプト)\n|titlebar=#ddd\n|width= 300px\n|float=right\n|bars=\n{{bar percent|イスラム教(スンナ派)|green|90}}\n{{bar percent|キリスト教その他|blue|10}}\n}}\n宗教は[[イスラム教]]が90%(ほとんどが[[スンナ派]])であり、[[憲法]]では[[国教]]に指定されている(既述の通り、現在では宗教政党の活動ならびにイスラム主義活動は禁止されている)<ref name=2010cia/>。その他の宗派では、エジプト土着の[[キリスト教会]]である[[コプト教会]]の信徒が9%、その他のキリスト教徒が1%となる<ref name=2010cia/>。\n\n=== 婚姻 ===\n多くの場合、婚姻時に女性は改姓しない([[夫婦別姓]])が、改姓する女性もいる<ref>[https://culturalatlas.sbs.com.au/egyptian-culture/naming-9bdb9e00-ffa6-4f6f-9b29-1616ec7bb952#naming-9bdb9e00-ffa6-4f6f-9b29-1616ec7bb952 Egyptian Culture], Cultural Atlas.</ref>。\n\n=== 教育 ===\n{{Main2|詳細は{{仮リンク|エジプトの教育|en|Education in Egypt}}}}\n[[ファイル:Bibalex-egypt.JPG|thumb|180px|[[新アレクサンドリア図書館]]]]\nエジプトの教育制度は、1999年から[[小学校]]の課程が1年延び、日本と同じく小学校6年・[[中学校]]3年・[[高等学校|高校]]3年・[[大学]]4年の6・3・3・4制となっている<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/world_school/07africa/infoC70400.html 諸外国の学校情報(国の詳細情報) 日本国外務省]</ref>。[[義務教育]]は小学校と中学校の9年である。[[1923年]]のエジプト独立時に初等教育はすでに無料とされ、以後段階的に無料教育化が進み、[[1950年]]には著名な作家でもあった文部大臣[[ターハー・フセイン]]によって中等教育が無料化され、1952年のエジプト革命によって高等教育も含めたすべての公的機関による教育が無料化された。しかし、公立学校の[[教員]]が給料の少なさなどから個人の[[家庭教師]]を兼任することが広く行われており、社会問題化している<ref>[http://www.fukuoka-pu.ac.jp/kiyou/kiyo15_1/1501_tanaka.pdf 『福岡県立大学人間社会学部紀要』 田中哲也]</ref>。高額な授業料を取る代わりに教育カリキュラムの充実した私立学校も多数存在する。エジプト国内には、20万以上の小中学校、1,000万人以上の学生、13の主要大学、67の[[師範学校]]がある。\n\n[[2018年]]より「エジプト日本学校(EJS=Egypt-Japan School)」が35校、開校した<ref>[https://www.jica.go.jp/publication/mundi/1904/201904_03_01.html 「日本式教育」で、子どもたちが変わる! エジプト]</ref>\n<ref>[https://www.jica.go.jp/press/2018/20181004_01.html 「エジプト・日本学校」35校が開校:日本式教育をエジプトへ本格導入]</ref>。これは2017年に[[JICA]]が技術協力「学びの質向上のための環境整備プロジェクト」を開始ししたことに始まるもので、[[日本の学校教育]]で行われている[[学級会]]や生徒による清掃などをエジプトの教育に取り入れようとする教育方針である<ref>[https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g00727/ エジプトの小学校に「日本式教育」、協調性など成果も]</ref>。試験的に導入した際には文化的な違いから反発も見受けられたが、校内での暴力が減った、子供が家でも掃除をするようになったなど、徐々に成果が見えるようになり本格的に導入されることになった<ref>[https://www.huffingtonpost.jp/entry/egypt-japan-school_jp_5cdba4c0e4b0c39d2a13534f 「日本式教育」はエジプトの教育現場をどう変えたか。「掃除は社会階層が低い人が行うもの」という反発を乗り越えて]</ref><ref>[https://egyptcesbtokyo.wordpress.com/2018/10/10/「エジプト・日本学校」について/ 「エジプト・日本学校」(EJS)について]</ref>。\n\n2005年の推計によれば、15歳以上の国民の[[識字率]]は71.4%(男性:83%、女性:59.4%)である<ref name=2010cia>[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/za.html CIA World Factbook \"Egypt\"]2010年1月31日閲覧。</ref>。2006年にはGDPの4.2%が教育に支出された<ref name=2010cia/>。\n\nおもな高等教育機関としては、[[アル=アズハル大学]](988年 p? )、[[吉村作治]]、[[小池百合子]]らが出身の[[カイロ大学]](1908年~)などが存在する。\n\n国立図書館として[[新アレクサンドリア図書館]]が存在する。\n\n== 文化 ==\n[[ファイル:Necip Mahfuz.jpg|thumb|[[ナギーブ・マフフーズ]]は[[1988年]]に[[ノーベル文学賞]]を受賞した]]\n{{Main2|詳細は{{仮リンク|エジプトの文化|en|Culture of Egypt}}}}\n\n* [[古代エジプト]]の建造物で有名。\n* [[ボードゲーム]]や[[カードゲーム]]の発祥の地としても知られている。\n* 座った時に足を組むと、相手に敵意があると受けとられる。\n\n=== 食文化 ===\n{{Main|エジプト料理}}\n\n=== 文学 ===\n{{Main|古代エジプト文学|アラビア語文学|エジプト文学}}\n古代エジプトにおいては[[パピルス]]に[[ヒエログリフ]]で創作がなされ、[[古代エジプト文学]]には『[[死者の書 (古代エジプト)|死者の書]]』や『[[シヌヘの物語]]』などの作品が現代にも残っている。7世紀にアラブ化したあともエジプトは[[アラビア語文学]]のひとつの中心地となった。近代の文学者として[[ターハー・フセイン]]の名が挙げられ、現代の作家である[[ナギーブ・マフフーズ]]は1988年に[[ノーベル文学賞]]を受賞している。\n{{clear}}\n\n=== スポーツ ===\n* [[サッカーエジプト代表]]の[[モハメド・サラー]]は[[プレミアリーグ]]で得点王、[[PFA年間最優秀選手賞]]を獲得、[[UEFAチャンピオンズリーグ 2018-19|2018-19シーズン]]に[[UEFAチャンピオンズリーグ]]優勝を果たした。\n* [[スカッシュ (スポーツ)|スカッシュ]]では[[21世紀]]に入ってからワールドオープン([[:en:World Squash Championships]])で男女ともに多くの優勝者を輩出している。\n\n=== 世界遺産 ===\n{{Main|エジプトの世界遺産}}\nエジプト国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された文化遺産が6件、自然遺産が1件登録されている。\n\n<gallery widths=\"180\" heights=\"120\">\nファイル:Egypt.Giza.Sphinx.01.jpg|[[メンフィスとその墓地遺跡|メンフィスとその墓地遺跡-ギーザからダハシュールまでのピラミッド地帯]](1979年、文化遺産)\nファイル:S F-E-CAMERON 2006-10-EGYPT-KARNAK-0002.JPG|古代都市[[テーベ]]とその墓地遺跡(1979年、文化遺産)\nファイル:Abou simbel face.jpg|[[アブ・シンベル]]から[[フィラエ]]までの[[ヌビア遺跡]]群(1979年、文化遺産)\nファイル:Al Azhar, Egypt.jpg|[[カイロ|カイロ歴史地区]](1979年、文化遺産)\nファイル:Katharinenkloster Sinai BW 2.jpg|* [[聖カタリナ修道院|聖カトリーナ修道院地域]](2002年、文化遺産)\nファイル:Whale skeleton 2.jpg|[[ワディ・アル・ヒタン]](2005年、自然遺産)\n</gallery>\n\n== 参考文献 ==\n*鈴木恵美編著『現代エジプトを知るための60章』、[[明石書店]]、2012年 ISBN 4750336483\n{{節スタブ}}\n\n== 脚注 ==\n{{脚注ヘルプ}}\n{{Reflist|2}}\n\n== 関連項目 ==\n* [[エジプト民族]]\n* [[エジプト美術]]\n* [[エジプト神話]]\n* [[エジプト軍]]\n* [[エジプト海軍艦艇一覧]]\n* [[エジプト革命 (2011年)]]\n* [[エジプトの法]]\n* [[エジプト関係記事の一覧]]\n\n== 外部リンク ==\n{{Wiktionary}}\n{{Commons&cat|Egypt|Egypt}}\n{{Wikivoyage|Egypt|エジプト{{en icon}}}}\n{{osm box|r|1473947}}\n{{ウィキポータルリンク|アフリカ|[[画像:Africa_satellite_orthographic.jpg|36px|ウィキポータルリンク アフリカ]]}}\n; 政府\n:* [http://www.egypt.gov.eg/arabic/home.aspx エジプト政府サービス・ポータル] {{ar icon}}\n:* [http://www.egypt.gov.eg/english/home.aspx エジプト政府サービス・ポータル] {{en icon}}\n:* [http://www.egypt.or.jp/index.html 在日エジプト大使館 エジプト学・観光局] - 「観光情報」と「基本情報」{{ja icon}}\n:\n; 日本政府\n:* [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/egypt/ 日本外務省 HP>各国・地域情勢>アフリカ>エジプト・アラブ共和国] {{ja icon}}\n:* [https://www.eg.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在エジプト日本国大使館] {{ja icon}}\n:** [https://www.eg.emb-japan.go.jp/itpr_ja/00_000035.html 在エジプト日本国大使館>エジプト情報]\n:\n; その他\n:* [https://www.jica.go.jp/index.html 独立行政法人 JICA 国際協力機構]\n:** [https://www.jica.go.jp/egypt/ HP>各国における取り組み>中東>エジプト生活情報]\n:** [https://libportal.jica.go.jp/fmi/xsl/library/public/ShortTermStayInformation/MiddleEast/Egypt-Short.pdf HP>世界の現状を知る>世界の様子(国別生活情報)>中東>エジプト短期滞在者用国別情報(2011)]\n:* [https://www.jetro.go.jp/world/africa/eg/ 独立行政法人 JETRO 日本貿易振興機構 HP>海外ビジネス情報>国・地域別情報>アフリカ>エジプト]\n:* [https://www.jccme.or.jp/08/08-07-08.html 財団法人 JCCME 中東協力センター HP>中東各国情報>エジプト]\n:* [https://wikitravel.org/ja/%E3%82%A8%E3%82%B8%E3%83%97%E3%83%88 ウィキトラベル旅行ガイド - エジプト] {{ja icon}}\n:* {{Wikiatlas|Egypt}} {{en icon}}\n:* {{CIA World Factbook link|eg|Egypt}} {{en icon}}\n:* {{dmoz|Regional/Africa/Egypt}} {{en icon}}\n\n{{アフリカ}}\n{{アジア}}\n{{OIC}}\n{{OIF}}\n{{NATOに加盟していない米国の同盟国}}\n{{Authority control}}\n{{Coord|30|2|N|31|13|E|type:city|display=title}}\n\n{{デフォルトソート:えしふと}}\n[[Category:エジプト|*]]\n[[Category:共和国]]\n[[Category:軍事政権]]\n[[Category:フランコフォニー加盟国]]"}

20. JSONデータの読み込み

Wikipedia記事のJSONファイルを読み込み,「イギリス」に関する記事本文を表示せよ.問題21-29では,ここで抽出した記事本文に対して実行せよ.

import json 

filename = 'jawiki-country.json'
with open(filename, mode='r') as f:
  for line in f:
    line = json.loads(line)
    if line['title'] == 'イギリス':
      text_uk = line['text']
      break

# 確認
print(text_uk)
--- 出力 ---
{{redirect|UK}}
{{redirect|英国|春秋時代の諸侯国|英 (春秋)}}
{{Otheruses|ヨーロッパの国|長崎県・熊本県の郷土料理|いぎりす}}
{{基礎情報 国
|略名  =イギリス
・・・

21. カテゴリ名を含む行を抽出

記事中でカテゴリ名を宣言している行を抽出せよ.

^はデフォルトでは文字列全体の先頭にのみマッチします。 今回はすべての行をチェックしたいため、MULTILINEオプションを利用して、^を各行の先頭にマッチさせています。

import re

pattern = r'^(.*\[\[Category:.*\]\].*)$'
result = '\n'.join(re.findall(pattern, text_uk, re.MULTILINE))
print(result)
--- 出力 ---
[[Category:イギリス|*]]
[[Category:イギリス連邦加盟国]]
[[Category:英連邦王国|*]]
[[Category:G8加盟国]]
[[Category:欧州連合加盟国|元]]
[[Category:海洋国家]]
[[Category:現存する君主国]]
[[Category:島国]]
[[Category:1801年に成立した国家・領域]]

22. カテゴリ名の抽出

記事のカテゴリ名を(行単位ではなく名前で)抽出せよ.

一部のカテゴリ名に含まれる「カテゴリ名|記号」の|以降を拾わないようにするために、カッコ内の正規表現にマッチはするが拾ってはこない(?:...)を利用しています。

pattern = r'^.*\[\[Category:(.*?)(?:\|.*)?\]\].*$'
result = '\n'.join(re.findall(pattern, text_uk, re.MULTILINE))
print(result)
--- 出力 ---
イギリス
イギリス連邦加盟国
英連邦王国
G8加盟国
欧州連合加盟国
海洋国家
現存する君主国
島国
1801年に成立した国家・領域

23. セクション構造

記事中に含まれるセクション名とそのレベル(例えば”== セクション名 ==”なら1)を表示せよ.

('=='), ('セクション名'), ('==')のグループを抽出し、=の長さをもとにレベルも併せて表示しています。

pattern = r'^(\={2,})\s*(.+?)\s*(\={2,}).*$'
result = '\n'.join(i[1] + ':' + str(len(i[0]) - 1) for i in re.findall(pattern, text_uk, re.MULTILINE))
print(result)
--- 出力 ---
国名:1
歴史:1
地理:1
主要都市:2
気候:2
・・・

24. ファイル参照の抽出

記事から参照されているメディアファイルをすべて抜き出せ.

各行の先頭以外にも登場しているため、MULTILINEオプションを外しています。

pattern = r'\[\[ファイル:(.+?)\|'
result = '\n'.join(re.findall(pattern, text_uk))
print(result)
--- 出力 ---
Royal Coat of Arms of the United Kingdom.svg
Descriptio Prime Tabulae Europae.jpg
Lenepveu, Jeanne d'Arc au siège d'Orléans.jpg
London.bankofengland.arp.jpg
Battle of Waterloo 1815.PNG
・・・

25. テンプレートの抽出

記事中に含まれる「基礎情報」テンプレートのフィールド名と値を抽出し,辞書オブジェクトとして格納せよ.

# テンプレートの抽出
pattern = r'^\{\{基礎情報.*?$(.*?)^\}\}'
template = re.findall(pattern, text_uk, re.MULTILINE + re.DOTALL)
print(template)

# フィールド名と値を辞書オブジェクトに格納
pattern = r'^\|(.+?)\s*=\s*(.+?)(?:(?=\n\|)|(?=\n$))'
result = dict(re.findall(pattern, template[0], re.MULTILINE + re.DOTALL))
for k, v in result.items():
  print(k + ': ' + v)
--- 出力 ---
・・・
標語: {{lang|fr|[[Dieu et mon droit]]}}<br />([[フランス語]]:[[Dieu et mon droit|神と我が権利]])
国歌: [[女王陛下万歳|{{lang|en|God Save the Queen}}]]{{en icon}}<br />''神よ女王を護り賜え''<br />{{center|[[ファイル:United States Navy Band - God Save the Queen.ogg]]}}
地図画像: Europe-UK.svg
位置画像: United Kingdom (+overseas territories) in the World (+Antarctica claims).svg
公用語: [[英語]]
・・・

26. 強調マークアップの除去

25の処理時に,テンプレートの値からMediaWikiの強調マークアップ(弱い強調,強調,強い強調のすべて)を除去してテキストに変換せよ.

以降、25で作成したresultに対して処理を行っていきます。

def remove_markup(text):
  # 強調マークアップの除去
  pattern = r'\'{2,5}'
  text = re.sub(pattern, '', text)
  
  return text

result_rm = {k: remove_markup(v) for k, v in result.items()}
for k, v in result_rm.items():
    print(k + ': ' + v)
--- 出力 ---
・・・
標語: {{lang|fr|[[Dieu et mon droit]]}}<br />([[フランス語]]:[[Dieu et mon droit|神と我が権利]])
国歌: [[女王陛下万歳|{{lang|en|God Save the Queen}}]]{{en icon}}<br />神よ女王を護り賜え<br />{{center|[[ファイル:United States Navy Band - God Save the Queen.ogg]]}}
地図画像: Europe-UK.svg
位置画像: United Kingdom (+overseas territories) in the World (+Antarctica claims).svg
公用語: [[英語]]
・・・

27. 内部リンクの除去

26の処理に加えて,テンプレートの値からMediaWikiの内部リンクマークアップを除去し,テキストに変換せよ.

def remove_markup(text):
  # 強調マークアップの除去
  pattern = r'\'{2,5}'
  text = re.sub(pattern, '', text)

  # 内部リンクマークアップの除去
  pattern = r'\[\[(?:[^|]*?\|)??([^|]*?)\]\]'
  text = re.sub(pattern, r'\1', text)

  return text

result_rm = {k: remove_markup(v) for k, v in result.items()}
for k, v in result_rm.items():
    print(k + ': ' + v)
--- 出力 ---
・・・
標語: {{lang|fr|Dieu et mon droit}}<br />(フランス語:神と我が権利)
国歌: [[女王陛下万歳|{{lang|en|God Save the Queen}}]]{{en icon}}<br />神よ女王を護り賜え<br />{{center|ファイル:United States Navy Band - God Save the Queen.ogg}}
地図画像: Europe-UK.svg
位置画像: United Kingdom (+overseas territories) in the World (+Antarctica claims).svg
公用語: 英語
・・・

28. MediaWikiマークアップの除去

27の処理に加えて,テンプレートの値からMediaWikiマークアップを可能な限り除去し,国の基本情報を整形せよ.

def remove_markup(text):
  # 強調マークアップの除去
  pattern = r'\'{2,5}'
  text = re.sub(pattern, '', text)

  # 内部リンクマークアップの除去
  pattern = r'\[\[(?:[^|]*?\|)??([^|]*?)\]\]'
  text = re.sub(pattern, r'\1', text)

  # 外部リンクマークアップの除去
  pattern = r'https?://[\w!?/\+\-_~=;\.,*&@#$%\(\)\'\[\]]+'
  text = re.sub(pattern, '', text)

  # htmlタグの除去
  pattern = r'<.+?>' 
  text = re.sub(pattern, '', text)

  # テンプレートの除去
  pattern = r'\{\{(?:lang|仮リンク)(?:[^|]*?\|)*?([^|]*?)\}\}' 
  text = re.sub(pattern, r'\1', text)
  
  return text

result_rm = {k: remove_markup(v) for k, v in result.items()}
for k, v in result_rm.items():
    print(k + ': ' + v)
--- 出力 ---
・・・
標語: Dieu et mon droit(フランス語:神と我が権利)
国歌: [[女王陛下万歳|God Save the Queen]]{{en icon}}神よ女王を護り賜え{{center|ファイル:United States Navy Band - God Save the Queen.ogg}}
地図画像: Europe-UK.svg
位置画像: United Kingdom (+overseas territories) in the World (+Antarctica claims).svg
公用語: 英語
・・・

29. 国旗画像のURLを取得する

テンプレートの内容を利用し,国旗画像のURLを取得せよ.(ヒント: MediaWiki APIのimageinfoを呼び出して,ファイル参照をURLに変換すればよい)

import requests

def get_url(text):
    url_file = text['国旗画像'].replace(' ', '_')
    url = 'https://commons.wikimedia.org/w/api.php?action=query&titles=File:' + url_file + '&prop=imageinfo&iiprop=url&format=json'
    data = requests.get(url)
    return re.search(r'"url":"(.+?)"', data.text).group(1)

print(get_url(result))
--- 出力 ---
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/ae/Flag_of_the_United_Kingdom.svg

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